わかる言葉とわからない言葉

日本に来て子供を育てるようになってから、シンハラ語のことを考えるというよりも言語の発達について考えることがとても多くなった気がする。
でももちろんそれはシンハラ語のことを考えなくなったということではなくて、子供が言葉を覚えているのをみていると、私たちもこういう風にシンハラ語を覚えなくてはいけないよね、覚えたいよねって思う瞬間が多くなるってことで…。

今現在4歳になった娘は2歳の息子よりも少しだけシンハラ語を聞くタイミングが多かった。
それは私と夫が話すのがシンハラ語の方が多かったから。
夫は日本に来た時には日本語が全くと言って良いほど話せず、夫婦の会話もシンハラ語。
それが徐々に日本語が多くなってきて、現在は日本語がほとんど。
シンハラ語で話をするのは子供に聞かれたくないことを話すとき。
「今日、デザート買ってきてあるよ。ご飯食べ終わったら食べるからね」
とか、子供に聞かれたら大騒ぎになることをシンハラ語で伝えることが多いのかな〜?😅

そんな娘と息子、二人ともシンハラ語は話さないんですが、でも二人には大きな違いがある。
娘は私がふざけてシンハラ語で話し掛けてもじっと私の方を見ているのに対して、息子はケタケタ笑うということ。
この違い、何かというと、娘は私が話しているのが言語だという認識があるという事じゃないかな?
そして息子は私が話している言葉が言語であるという認識がない。

試しに二人に言葉ではない音の羅列で話しかけてみると二人とも笑う。
でもシンハラ語で話しかけると息子だけが笑い続ける…。

これってとても面白いと思う。
多分二人の違いはそれが言語だと認識する程度に聞いたことがあるかどうか。

言葉はたくさん聞くと聞いた時間がバケツに水が溜まるように蓄積していって(インプット)、それがいっぱいになったところで外に溢れ出す(アウトプット)と聞いたことがある。
娘はアウトプットまで行っていないけど、多少のインプットはされているということなんじゃないか?
そしてそれに比べて息子は全くと言っていいほどインプットされていないということじゃないか??

私は言語の発達についての専門家じゃないからわからないけど、そんなことを思いながらの子育ての日々なのでした。

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