スリランカのクラヤ ゴウィ クラヤ編

さて、クラヤの話の更に続き。
スリランカのクラヤの中で一番上なのは何?
それが人口の半分を占めていたと言われるゴウィ クラヤという稲作農家のクラヤ。
日本の士農工商と一緒で農家が上のほうなんだね〜と思ったらまたこれも少し違っていて、スリランカの場合は一番上になるのが農。
その証拠にスリランカの王様のクラヤももちろんゴウィ クラヤ。
国中のすべての人がクラヤに分けられているそのすべてというのはもちろん王様も含むんですよ。
これで納得いくのがポロンナルワにあるパラークラマ サムドゥラという湖アヌラーダプラにも人口の湖がたくさん作られている意味。
あれは灌漑を整備するために作られたものであり、それを整備することによって田んぼに水が行き渡り人々の生活が豊かになる。
その人々の生活を良くするために王様が必死で湖を作っていたのは王様自身もゴウィ クラヤであり、農業の大切さをとてもよく知っていたから。
そしてクラヤの中で一番力があったのもやっぱり人口も一番多いゴウィ クラヤ。
でもさっきも書いたとおりゴウィ クラヤでもいろいろな種類に更に細かく分かれていたから今でも例えばこの土地はゴウィ クラヤでもマハヌワラ時代大臣を務めるほどのクラヤ人たちの住んでいた場所というのももちろん普段は話にならなくても実際あって、だからこそ今でもその土地の人たちと結婚したいと結婚相手を探しに来るという話も聞くことがある。
そういうのを聞くとやっぱりクラヤというのはすべてなくなったわけではなく、何かあった時には考慮されることもあるんだな〜と思う。
ちなみにゴウィ クラヤは稲作農家だけど、その他の人たちは彼らのお米を物々交換で受け取るしかないのかというと、自分たちの仕事がない自由な時間には自分たちの農作物を作ったりしてやっぱり農作業をすることが認められていた。
自分たちのクラヤで決められた仕事をきちんとしていればその他は農作業をしていて構わないと考えれば、少しがんばって時間を作って農作業をすれば生活するのに難しくないだろうことは推測できる。
確かにクラヤというのはいろいろな問題があったかもしれないけど、ボーガハ(菩提樹)がスリランカに来てからマハヌワラ時代までスリランカの人たちがクラヤの風習を発展させながらも継続してきたということはやっぱりそれが人々には必要であり、利点が多かったからなんだと思う。
ポロンナルワ時代、ダンバデニヤ時代にもKeikoにとっては鳥肌モノの感動的な文学を残してきたこの国の人たちがただ人を上下で分けるためにクラヤを作るわけはなく、その意味も彼らの理論もきちんとあったということ。
きっとまだ私の知らないクラヤのことはたくさんあるし、書ききれなかったこともあったけど、これがとっても大まかにスリランカのマハヌワラ時代におけるクラヤについて。
は〜、長かった、やっと終わった〜[[pict:symbol7]]と思ったみなさん
ここまでお付き合いホントにありがとうございました。[[EE:AEAD9]][[pict:ase2]]
こんなややこしいのは私もこれだけにしたい・・・
(まとめるだけで3日かかったし)
これからはもう少し軽い話題でいけるようにしましょうね
(ってするのはアンタだ!って言われそう。)[[pict:piyo]][[pict:ase2]]

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